SIGH An aerial view of the Punta della Dogana, the pointy spit of land at the tip of Dorsoduro that once served as the gateway to the Italian port of Venice. (Photo by Alberto Pizzoli, AFP-Getty via the Boston Globe)
どうしてもまたそこに行きたかったので、博多から飯塚に向かう車中、同行者に遠回しに自分の悪い癖について話してみた。旅行していて居心地の良い店を見つけると、滞在中ずっとそこにかよってしまうことが多いのだが…。同行者が苦笑しながら「今晩も、おでんで構いませんよ」と応えてくれる。というわけで、晴れて、二晩続けて同じ店に行った。西中洲の「安兵衛」というおでん屋だ。
カウンターの内側の奥に大きな丸鍋が据えてある。遠目でわかるほど、つゆの色がとても濃い。カウンターの他には大きなテーブルがふたつ。混んでいればぎゅうぎゅうに客が座るのかもしれないけれど、カウンターもテーブルもどこかゆったりとした雰囲気がある。それはどうやら、ご主人と女将さんのおっとりやさしい客あしらいがこの店全体をつつんでいるからなのだと、注文を重ねるうちにわかってきた。大根、こんにゃく、春菊、筍、九条葱、海老糝薯、玉子、厚揚げ、つみれ、ロールキャベツ。どれを食べても美味い。つゆは鰹節と昆布の出汁、色から想像するよりずっと薄味だ。
テーブルの上に枡の形をした灰皿があった。ぼんやりとそれを眺めていて、屋号の焼き印が捺されているのに気づく。「銀座いわしや」。どうしてここに「いわしや」の灰皿があるのだろう。すごく気になった。我慢ができず女将さんに尋ねると、「主人の姉の店なんです」と言う。たしかに「いわしや」の女将さんから、弟が福岡で商売をやっているという話を、何年か前に聞いた記憶がある。この店だったのか。すっかり嬉しくなって三本めの熱燗をおかわりした。
まだ二度しか行っていないが、いちばん好きなメニューは「すじ」だ。おでんではなく、スープ仕立てになって出てくる。野菜とともに煮込まれた牛すじは、ちょっと濃厚なポトフといった味わいで、赤ワインが欲しくなった。すじと茶飯、そして茶飯を頼むとついてくる糠漬け。それだけでも毎日かよいたくなる理由にできる。
安兵衛 福岡県福岡市中央区西中洲2-17
「鳳舞」で昼飯を食べようと思った。ひとりだから選べるメニューの数に限りがある。こういうとき、自分はよく「さんざん迷った末に」などと言うのだが、どんなに考えても、だいたいは最初から決めていたかのごとき無難な結論にしか至らない。クワイのシャリッとした食感が味わいたいから、焼売が絶対に欠かせない。揚げた麺の焼きそばは嫌いなはずなのに、どういうわけか「鳳舞」のものは美味いと思うので、せっかくならこれも食べたい。もう一品いきたいところだけれど、きっと残してしまうことになる。無理せずに、あとはビールの小瓶でも飲もうか。こんな具合で、いつも同じものを選択してしまうのだ。
ビールを飲みながら、店の名前が入った小皿をぼんやり眺めていると、客がひとり入ってきて、ひとつ奥のテーブルに着いた。背中を向けているから顔は見えないが、初老の男性だった。「トマトとスープとご飯」と注文する。トマトは40分くらいかかると従業員に言われ、構わないと応える様子はとても手慣れていた。それにしてもトマトというのは何なのだろうか。テーブルに置かれた品書きのプレートをあらためて確かめてみる。「21 蕃茄蒸牛肉」にトマトと読み仮名がふってあった。ビールを飲み干し、焼売と焼きそばを平らげて、会計をしようと立ち上がったのと同時に、そのひとり客の席にトマトが運ばれてきた。皿の上の料理を横目で確認する。とても美味そうだった。
地下鉄で北大路から今出川に行き、雨の中、京都御所の横を歩いて河原町通りに出る。「カフェ工船」でコーヒーを飲んだ。店主とぽつりぽつり会話する間、頭にはトマトのことしか浮かばない。たまたま持っていた須賀敦子の本を読もうとしても、同じ行を何度も目で追うばかり。ぜんぜん身が入らない。二時間近く、心ここにあらずの状態でカウンターにへばりついているうちに雨が上がった。代金を払い、外に出てタクシーを拾う。
「鳳舞」の店内に人影はもうなく、ひっそりとしていた。中休みなのだろうかと考えていると奥から人が出てきて、不思議そうな顔をしてしばらくこちらを見ている。そして「さっきも来てはったね」とようやく思い出してくれた。一回では食べ切れないものがあったので腹ごなしの散歩をしてきましたと言うと、大きな声で笑った。他に客はいないから、遠慮なくいちばん好きな入口近くの六人掛けテーブルに座る。さあ、トマトを頼んでみよう。しかし、口をついて出てきた言葉は「豚のてんぷらとビールの小瓶」だった。自分には冒険心のかけらもない。
1番から33番まである「鳳舞」のメニューのうちで、自分が食べたことがあるのはたった五品である。そして、41年続いた「鳳舞」は、この八月で店をたたむのだそうだ。なんと悲しいことだろう。
鳳舞 京都市北区出雲路松ノ下町11




